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[メモ] 奥平康弘氏の法廷証言(1)

弁護人:最高裁判例が「羞恥心の侵害」ということを言う背景に「性行為非公然の原則」という考え方がありますが、性行為そのものと、性の表現とは、同じレベルで考えられる問題なのでしょうか?

証人:表現の自由ということが、それ自体として問題になるような事態になってきたということの1つの大きな意味は、表現物はあたかも物理的な力と同じような力をもっているというふうに考える傾向があったのは、わいせつ文書との関係だけではなく、例えば、天皇制を廃止する議論と、それから、天皇制を廃止する物理的な行為、つまり反逆罪と不敬罪とを同じ法領域で規律していましたよね。それは、表現という人の精神作用にのみかかわる領域における社会的な行為と、人の物理的な行動にかかわるアクションというものとは同じだというふうに人々はずっと長い間考えてきて、アクションに結びつくから、アクションと同じだからということで、展開するようになった。

 「性行為は非公然でございます」というのは一般通念としてあった。だから、それを表現するほうも非公然でなくちゃならないというふうに考えたとき、性行為と性行為を表現する自由とは同一線にあり、前者が規律されるんだったら後者も規律されるべきだという論理で、議論が設定されていたというふうに思います。

http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Tone/9018/shoubun0714-02.html

弁護人:このわいせつ表現の規制という問題は、突き詰めていけば、なぜ性表現を規制するのかということと、国が規制できるという根拠の問題だと思いますが、アメリカでは、50年代くらいまでどのような議論がなされていたんでしょうか?

証人:1950年代までのアメリカというのは、これはほとんど憲法上の問題になりませんでした。コモン=ロー上、もうわいせつであるとか、名誉段損であるとか、神聖冒涜とか、もう憲法と関係ないよという時代がずっとあるわけです。1950年代まではそうですよ。そういう時代があった中で、ちょっとそれはおかしいんじゃないのという議論がではじめるのが50年代以降です。

20年代?30年代以降、政治的な自由を制限する議論と法律があったために、表現の自由というものは政治的な表現の自由を保障するためのもの、そして、それはデモクラシーの観点から流れていたという考え方が、20年代?30年代には出かかっていた。しかし逆に、政治的な問題ではないものはコモン=ローに従って、これはもう憲法の問題じゃない、表現の自由の問題じゃないと考えられた。

これは人間がだれしも犯すアナロジーなのですけれども、イメージ、文字という形をとっているけれども、これは暴力と同じ力を持っていると。人に対してショックを与える種類のもので、それ自体としてあるんだ。だからもう憲法の表現の自由がそこに入り込む余地がないというふうに説明されてまいりました。僕が憲法を勉強したのは正にその時期だったわけです。

それに対して、ちょっとおかしいんと違うかと、「ぶん殴る」ということと「表現する」ということと違うんじゃないの? という話が展開するようになったとき初めて、憲法論ではないと考えられてたわいせつの問題も、その他の問題、典型的には扇動罪がそうですけれども、それと一緒に棚から下ろされることになるのが50年代以降、60年代であります。

http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Tone/9018/shoubun0714-03.html

『存在』と『無』という二分法

377 存在権の配分

もしだれかが絶対主義的あるいは全体主義的な真理観を持つと、彼にとっては、その光を見ていない人、つまりその真理を受け入れていない人は、ある意味で闇の中にいるのであり、悪と結合しており、汚れており、存在する権利を持たない。

ここには『存在』と『無』という二分法が働いている。

正当な存在を邪魔するものは押しのけられ、あるいは滅ぼさなければならない。存在する権利がない第二の部類に入れられた者は、心理的に内面の死滅または崩壊というすさまじい恐怖を経験する。

しかし逆に受け入れられた場合には、自己をエリートの仲間と感じる大きな満足感がある。

Mind Control
http://iwatachi.com/mcsogo.html

(メモ)前田雅英「日本の治安は再生できるか」(ちくま新書)


・戦後制定された日本国憲法の価値判断がしだいに定着し、さらにその後の欧米の影響も加わりつつ、戦前からの「規範」を否定し、自由主義的価値観が最も強調された時期であったと言ってもよい。その象徴が大学紛争であったとも言えよう。(p111)

・ほとんどの者が進学するようになった高校においても「学園紛争」の嵐が吹き荒れ、教師の権威が弱まり、さらには親も権威を喪失していく。青少年期の権威への反抗の象徴としての学園紛争は、戦後前半の少年犯罪の特徴とも相応している。既存の規範(既成権力)への反発が学生運動であり、既存の規範の否定が少年犯罪だったのである。(p136)

・現在の少年非行の深刻化の中核部分は、大局的に見れば、戦後世代が安直な自由のみを追求し、それまで存在してきた規範を弱体化させてきたこと、そしてそれが拡大再生産された結果なのである。(p112)

・カメラも、コストはかかるが、警察官の増員の費用に比べればかなり安くて済む。ただ、最も大きなコストは、プライバシーの侵害の可能性である。商店街等の民間人が、自ら設置するカメラも増えている。そこでは、よりいっそうのデータの濫用の危険をはらむ。しかし、安心で安全な街を作るためには、そのような犠牲は、合理的な範囲内であるならば甘受せざるをえない。そう考える国民が増えてきているのである。(p198)

道徳事業家(moral entrepreneurs)

「規則が生みだされ適用されるあらゆる場面において、われわれはかならず、企画を行う個人ないし集団の存在に気づくであろう。そのような人間の活動を道徳事業(moral enterprise)と名づけることができる。なぜなら、彼らの企画の対象は社会の道徳体系、いいかえれば社会の善悪の掟に新しい一節をもうけることにあるからである。」

「もっともこの種の人間は、一つの目標を失っても、自分の関心を一般化してあらたな緊急事態――なんらかの処置を講じなければならない悪――を探しだすものである。矯正すべき悪事、新しい規則を必要とする状況の専門的発見者となるのである。?私どもが何より恐れているのは、適度にという考え方なのです。?みずからの使命を成就できる改革運動者の数はかぎられているが、彼らが新しい規則を創造することによって、新しいアウトサイダーの群が創造されるわけである。」

「改革運動のもっともめざましい成果は、新しい規則群の創設である。その創設にともなって通常新しい一連の執行機関とその職員が設置される。?急進的な政治運動がやがて組織化されて政党に、また熱烈な福音主義者のセクトが安定した修派に発展してゆくのと同様、道徳改革運動の帰結するところは警察権力なのである。」

ハワード・S. ベッカー(1993)「アウトサイダーズ」(新泉社)より

[メモ] 国連の権威を疑え! (海渡雄一弁護士)


7 国際機関の権威による治安立法の押しつけ

  そして、国際機関の権威をもとに、各国の立法機関による変更を許さないような形で、治安的立法が民主的な討論が欠けた状態で各国の立法機関に押しつけられているといえる。そして、国内的に活動している人権団体も、各国の立法機関も条約が起草されてしまった後には、条約の内容を是正する手段を持っていないのである。各国の国民に与えられた選 択の余地は、条約を批准するかどうか、批准するとした場合、条約上許容された裁量の幅のなかでよりよい選択(一部留保を含む)をする以外に方法がない。

  これが、まさに、いま、我が国の国会で共謀罪をめぐる与党案と野党案のせめぎ合いで起きている事態の本質なのである。

  国際組織犯罪防止条約やサイバー犯罪条約は、この間の政府与党のキャンペーンを見ても明らかなように、抗いがたい国際的な流れとして、国内に持ち込まれている。しかし、この国際的なトレンドの正体を正確に見据えて、その立案の過程にさかのぼって、その政治的な性格を明らかにし、この権威を疑ってみる態度が求められているのである。

8 国際人権法の原則にも違反

  これらの国連条約やFATF勧告はこれまで国際的に確立してきた民主主義的な法制度や価値の原則のいくつかに真っ向から対立する部分を持っている。個人のプライバシー権、刑事司法における無罪推定の原則、集会・結社・表現の自由の保障、弁護権、拘禁された者の裁判所に出頭する権利、公正な裁判を受ける権利などがそれである。

9 結論

  最近の刑事立法は国連やヨーロッパ評議会、OECDなどの国際機関からの要請、テロ対策、組織犯罪対策という反対しにくい外形を備えているが、それにだまされてはいけない。最近の刑事実体法は犯罪の成立を前倒しにし、また厳罰化を進める傾向が顕著である。これは、政府の政策に反対すること、とりわけ政府の戦争政策に反対することなどを非合法化する意図に発しているものと考えざるを得ない。また、最近の刑事手続法は、テクノロジーの進歩などを理由として、簡単な手続きで莫大な情報を収集できる方向を目指している。このようにして収集された情報がIT技術を駆使してデータベース化されれば、究極の監視社会が出現するであろう。

http://www.azusawa.jp/break/toukou/kaido-060516.html

Twitter / くろいつみ: 神への不敬罪、思想統制のための禁書措置、右派又は左派 ...




http://twitter.com/kuroitumi/status/70605843825045504

思想の自由な交易の理論



言論迫害は、わたしにとっては、全く論理的なものと思われる。

もしあなたが、自分の理論や自分の権力に疑いをもたず、そうしてある結果を心の底から望んでいるとしたら、あなたは、自然、自分の希望を法律の形に現わし、あらゆる反抗を一掃してしまうだろう。

言論による反抗を許すということは、その言論が無力だと考えているか、結果はどうでもいいと思っているか、あるいは自分の力や理論を疑っているか、そういったようなことを示しているようにみえる。

けれども人々は、が相戦う多くの信仰をくつがえしてしまったことを知るならば、自分たち自身の行動の基礎そのものを信ずるにもまさって、望ましい究極の福祉は、思想の自由な交易によってのみ達せられるということを信ずるようになるだろう。

(メモ) マルクス主義とリベラリズム (丸谷敬一)

では、マルクス主義とリベラリズムとの関係はどうであろうか。私は無学にして、マルクス主義者がリベラリズムを積極的に評価している文章を読んだことがない。彼らがリベラリズムに言及する時は、必ず「ブルジョワ・リベラリズム」などという貶価の形容語を伴っている。マルクス主義者が作り出した体制では、「プロレタリアート大衆」の利益と「前衛党」の指導や「プロレタリアート独裁」の利益は、完全に一致しているものと観念されていたため、それらが乖離する可能性が否定され、権力を抑制するメカニズム(権力分立、法の支配、独立した批判的なマスメディアなど)を作り出す必要性が認識されなかった。いやむしろ、プロレタリアート独裁に反対する個人の自由などを認めることは、革命の事業を遅らせるだけであると考えられた。それゆえ、リベラリズムのなかでも最も本質的な「国家権力からの自由」(消極的自由)が、まったく存在しない社会が作られてしまったのである。

http://www.ps.ritsumei.ac.jp/assoc/policy_science/113/11309.pdf

(メモ)「国家からの自由」の想定する「国家」(榎透)

しかし,連邦最高裁はその判決の中で,なぜ国家の中立性が必要とされるのか,なぜ憲法は国家のみを制限すべきであるのかという問題について,国家の側面からは十分な説明をしない。この問題については,ステイト・アクション法理を論ずる学説が次のように説明する。

第1の理由は,政府(government)が莫大な権力を持ち,強大な人権侵害をしうる存在だからである。政府による人権侵害と私的権力による人権侵害との間には質的な差異がある。つまり,政府は,立法権,司法権,執行権といった広範かつ極度に強大な制度上の力を持ち21),私的権力に比べてマイノリティの権利やプライバシーのような「非常に多様な憲法的価値を強大にそして潜在的に破壊する」存在である。しかも,政府の莫大な権力が常に人びとに対して適切な形で行使されることなど,どこにも保障されていない。したがって,憲法は,憲法的価値の破壊を避けるために,政府の強大さに縛りをかける規範として存在する22)。

第2の理由は,政府は「模範としての政府(Government as Exemplar)」という役割を担うからである。この役割の点で,政府と私的権力との間には質的な違いがある。政府の持つ特殊な性格により,政府が提示・許容する価値は類のないほど強化される。それゆえ人びとは自分の立場が政府により承認されると,自己の人種的あるいは性的な見解の正当性について疑問に思わない傾向があると考えられる。政府の偏見が人びとに与える強大な影響は,いかなる種類の私的行為も匹敵しえない。それゆえ,「模範としての政府」という考え方が登場し,この考え方が憲法に規定される人権の対公権力性を正当化する23)。

以上から,「国家からの自由」の想定する「国家」とは,広範かつ強大な権力を持ち,私的権力に比べて「非常に多様な憲法的価値を強大にそして潜在的に破壊する」存在である。またそれは,人びとに対して甚大な影響力を与えうる存在であり,その影響力はいかなる私的権力の比でもない。そのため,国家にひとたび不当な権力行使をされた者は致命的な害を被る。国家はその性格のゆえに,憲法によって規制されるべき存在となったのである。

http://www.senshu-u.ac.jp/School/horitu/publication/hogakuronshu/100/enoki.pdf

(メモ) 私は「正義のひと」が嫌いである。 (内田樹)

私は「正義のひと」が嫌いである。

何がはた迷惑といって、「私は正義のひとである」と堅く信じてみじんも疑わない人ほど邪魔臭いものはない。

「正義のひと」はすぐに怒る。「正義のひと」の怒りは私憤ではなく、公憤であるから、歯止めなく「正義のひと」は怒る。

「正義のひと」は他人の批判を受け入れない。「正義のひと」を批判するということはただちに「批判者」が無知であり場合によっては邪悪であることのあかしである。

「正義のひと」はまた「世の中のからくりのすべてを知っているひと」でもある。「正義のひと」に理解できないことはない。

思えば、私のこれまでの人生は(というと大仰だが)「正義のひと」との戦いの歴史であった。

Simple man simple dream
http://www.tatsuru.com/columns/simple/01.html
実在児童の人権擁護基金
(郵便振替)
10020-57716711
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(ゆうちょ銀行)
店名:〇〇八(ゼロゼロハチ) 普通 5771671
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