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平成二十二年総務委員会速記録第八号|東京都議会(宮台真司)(5/6)

〇吉田委員 先生、お忙しい中、ありがとうございます。また、話を聞かせていただきまして、法学あるいは社会学的な観点から条例案の問題点について鋭く分析をしていただいて、大変参考になりました。

 若干、話されたことと重なる点がどうしてもあるかと思いますけれども、何点か改めて聞かせていただければと思います。

 先生の話の中で、個人的法益と社会的法益という問題にかかわって、改めてお聞きしたいというふうに思います。

 先生の意見書を読ませていただきましたけれども、実在青少年の規制は、個人的法益が侵されることで規制をするという点では合理的である。ところが非実在青少年の場合は個人的法益とは無関係であり、規制すべきではないというご見解だと思います。

 ところが、青少協の議論などを私も改めて読んでみると、非実在であったとしても、結局その漫画に描かれている女子がその対象になっているということは、全児童の人格を否定するというふうにやっぱりとらえるという、とらえ方が弱かったんだと。したがって、非実在であったとしても人格否定なんだから、そこに踏み込むべきだという議論がされています。それが先生のいう個人的法益と社会的法益ということかもしれませんけれども、そういう議論について、改めて先生の見解をお教えください。

〇宮台参考人 社会学ないしその一分野であるフェミニズムにおきましても、ジュディス・バトラーを代表とする論客がそうした論点を掲げています。

 表現の自由も大事だが、表現の自由の美名のもとで、ポルノグラフィーが、別にレイプを描いていなくても女性に対するある種の社会的通念を押しつけ、社会的通念のもとで人々が持っているだろう視線、まなざしにさらされてしまう。これは暴力だという議論を展開しています。

 これは立論として一聴に値しますが、だから行政がそれを規制しようという議論は危険です。つまりバトラーの議論は、その漫画を見て、自分が否定されていると思う人が中にはいる、ということです。でも例えば、今回の七条の二号等によって規制されるであろうボーイズラブの描き手も享受者も、基本的には女子、特に小学校、中学校、高校の女子でしょうけれど、その方々は、自分たちで描いたポルノグラフィーをもって自分たちの人格が否定されているなんていうふうに思うでしょうか。

 つまり、先ほど申し上げましたように、問題は、不意打ちを食らわない権利、あるいは子どもに見せないで済む権利ではないでしょうか。一定の表現物を人々がどう感じるのかということを、行政が、こう感じるはずなんて決めていいはずがない。

 以上です。

〇吉田委員 続いて、先生は、表現規制ではなくて、先ほども話がありましたけれども、受容環境の整備ということの必要性というものを、意見書の中で強調されています。この受容環境の整備ということについて、もう少し具体的に説明していただければ幸いです。

〇宮台参考人 幾つか具体例を挙げましょう。

 まず家族、そして社会学ではホモソーシャリティー、つまり部活動的な人間関係、そして近隣の人間関係、それぞれ申したいと思うんですね。

 例えば、私の父、母、それぞれやみ市世代ですね。当然、やみ市の中でのカストリ本を含めた雑多な環境、やみ市の時代にはまだ夜ばいがありましたし、府中のくらやみ祭りもまだおどろおどろしいものでしたが、そうしたノイジーな、括弧つき有害な環境の中で育ってきて、私の父や母の世代は有害な人格に育ったでしょうか。つまり、それはあり得ないんですよ。

 ノイジーであっても、人々のきずな、共同性あるいは共同身体性、つまりみんなでコミュニケーションし合って、それは何だよね、こうだよねという環境があれば、やっぱり反社会的にはならないんですね。そこに問題のかぎがある。

 かつての家族はそういうふうに機能したし、伊丹十三さんが以前「モノンクル」という雑誌を出して、斜めの関係が大事だというふうにいっていました。親がいわなくても、あるいは親がいったら反発しても、隣のちょっといかれたおじちゃんがいかしたことをいってくれる。それがロールモデルになったりする。

 あるいは、昔の体育会系的な人間関係は、しごきがありました。僕らが若いころ、しごきは全然悪い意味を含んでいなかった。例えばそういう意味でいえば、本人が望んでいなくても、本人がへたれであれば、おまえ、これやれよというふうにたたき込むということを、先輩からやられた。実はそうしたことを通じて、社会のノイズに、隔離されるよりも、むしろ免疫化されるというプロセスが進んだんですね。

 よくいうんですが、子ども時代は、学校を含めて通過点です。子ども時代に、あるいは学校においてノイズから隔離しても、どのみちノイズに満ちた社会に出ていきます。ノイズに満ちた社会は、別に日本だけに限られていません。

 そのときに、ノイズに対する免疫がなければ、こういうこともああいうこともあり得るんだということについての知識あるいはそれに伴う構えがなければ、本人は当惑し不適切な選択をするでありましょう。実際、昔、家や地域や、あるいはホモソーシャリティーの中でなされていたコミュニケーションはそういうものでしたよね。つまり、おまえはそう思っているかもしれないけれども、それは思い込みだな、おまえはまだ人生知らないな、世の中そういうふうには動いてねえんだよ、だからこれを知っておけよというふうなコミュニケーションができた。

 それはまさに、先ほど申しましたように、表現の枠が現実を超えているからこそなされるコミュニケーションですね。先輩、こんなことって本当にあるんですか。いや、これはねえな。あ、これはないのか。先輩、これは本当にあるんですか。これはあるどころか、もっとげろいことがあるんだよ、現実には。

 もし表現の枠が現実の枠と完全に重なっていたら、そうしたコミュニケーションはできません。これはゆゆしき問題だと思います。

〇吉田委員 なかなかわかりやすいご説明だったと思います。

 時間もありませんので、じゃ最後に、非常に注目を集めていて懸念が広がっている、表現に対する萎縮あるいは抑制という問題について、説明を受けておりますけれども、改めてお聞きしたいというふうに思います。

 非実在青少年を登場させる性表現の規制は、社会的意思表示機能を果たすだけでなく、社会の文化を豊かに支える表現を不公正に萎縮させる機能をも果たすことを警鐘いたします、という旨のことを先生はいわれていると思いますが、私も全く同感です。

 ところが、既に先生からお話がありますけれども、質問回答集では極めて大ざっぱに、場所を移すだけなんだから何ら問題ありません、表現の自由は侵害していません、萎縮にもなりませんということが強調されています。改めてこの点について、先生の見解をお願いいたします。

〇宮台参考人 まず、質問回答集は、行政当事者の、簡単にいえば私的な見解に近いものです。私的な見解と申しますのは、当座しか意味がないということですね。それは先ほど申しました。

 実際、条例を読めば、質問回答集が矛盾していることはよくわかります。指定図書については、区分陳列等についての義務づけがあります。しかし、七条は指定図書ではありません。指定図書よりも包括的な対象に対する努力義務を課していて、そしてそれとは別に十八条で、行政と業者と市民が、青少年を性的な対象とするような描写物に対して否定的な振る舞いをするように奨励するというふうになっています。質問回答集とは全く矛盾した中身になっています。

 我々は、質問回答集ではなくて、条例を信じるべきです。条文を信じるべきです。条文が危険であれば、質問回答集が何をいっていても無意味です。

 以上です。

http://www.gikai.metro.tokyo.jp/record/soumu/d3010198.html

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