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平成二十二年総務委員会速記録第八号|東京都議会(宮台真司)(1/6)

〇宮台参考人 ご紹介にあずかりました宮台真司と申します。

 お手元にこういう資料があると思いますので、それをごらんになりながらお話を聞いていただければというふうに思います。

 まず最初に、この数十年間、メディアが大変発達してきました。その中には性的なコンテンツが以前にも増してふえてきました。それによっていかにも犯罪がふえてきたかのような感覚があるとすれば、それは実際には完全な間違いです。

 ごらんのように、子どもレイプ被害者は、例えば一九六〇年と二〇〇〇年の比較でいえば、十分の一に減っています。人口比を勘案しても七分の一です。したがって、メディアによる性的被害者が激増中であるからといったような規制の根拠づけは、完全なでたらめでございます。


 さらに、今回の、とりわけ都条例改正の七条そして十八条等にかかわる危険についてお話をいたしますと、一口でいえば、ゾーニングの顔をした表現規制であるというところに問題がございます。ゾーニングについては後で詳しく申します。例えば条例改正案七条、右の方にございます、ないように努めなければならないという文言に注目していただきたいですね。努めていないという逸脱、不作為の構成要件が極めて不明確です。構成要件が不明確であれば、恣意的運用、例えば、条例はコンビニの仕入れ担当等に、行政指導において使われたりしますから、当然危険があります。

 このパネルには行為の恣意性、つまり努めていないという不作為の恣意性のみが挙げられていますが、ほかに、規制対象の恣意性並びに努力義務というか、蔓延抑止義務が規定される主体の恣意性というものもまたございます。これについては質疑のプロセスでお話ししたいというふうに思います。

 この七条の、とりわけ「努めなければならない」という構成要件の不明確さに、十八条六の、特に二、三、四が絡んできます。条例改正案十八条の六の二、「都は」という主語ですけれども、要は、青少年性的視覚描写物が蔓延しないように機運を醸成する義務を都が負い、同じような義務を業者、事業者が負い、同様な義務を市民、都民が負うというふうな形になっています。構成要件の恣意性と合わせますと、これは、とりわけ市民による無限定的な、とりわけ享受者の年齢無限定的な悪書狩りにつながる可能性があり、許容することができません。構成要件の不明確なゾーニングは、表現規制と、機能においては同じです。

 次に、東京都側から質問回答集なるものが出ていますが、基本的には完全に無意味です。法理学の基本原則を申しますと、憲法は立法意思がすべて、法律は、つまりもちろん条例も含みますが、条文がすべてです。

 ある首相の発言で、現内閣の法解釈は前内閣に必ずしも縛られないという有名な発言があります。役人の人事異動があり、そして議員の改選があれば、官僚答弁も附帯決議も基本的には司法における法解釈を拘束しません。それだけではなくて、本当は司法側からの解釈のみならず、行政側の解釈も代がわりによって変わり得るということは重要です。それが元首相の発言の意味するところです。

 都側から出されている「条例の解釈が誤解である」には苦笑せざるを得ません。なぜならば、この誤解は、司法や裁判官による誤解の可能性そのものをあらわすからです。さらに、この誤解の可能性は、官僚による裁量行政による権力と権益の温床を意味します。

 したがって、市民と裁判官の別を問わず、誤解の可能性を完全に防圧したもののみが、条文の名に値します。

 次のパネルにまいります。今回の青少年条例改正、とりわけ青少年性的視覚描写物の規制にかかわる保護法益、つまりそれによって保護される利益はだれのものであるのかというお話をいたします。

 一般に保護法益は明確でなければいけません。それは、行政権力が社会の営みをあくまで補完するものでしかないからです。

 保護法益には、個人的法益と社会的法益がございます。実在青少年を被写体とする表現は、個人的法益を侵害いたします。この場合の個人的法益とは人権のことです。細かくいえば、人権の自由な行使の前提にある尊厳を保護するということになります。

 しかしながら、非実在青少年の描写において、個人的法益すなわち人権を侵害される当事者はおりません。したがって、非実在青少年にかかわる表現規制は、あえてそういうふうに申しますが、個人的法益を目的としていません。

 とすれば、社会的法益しかありませんが、社会的法益には従来、人権内在説と人権外在説と二つあると考えられてきています。人権外在説とは、人権に外在する秩序の利益があるとする観点で、例えば刑法百七十五条のわいせつ三法の一部ですが、わいせつに対する規制、公序良俗という規定があります。

 しかし、個人の人権と関係ない秩序の利益という概念が非常に危険で、統治権力の謙抑性にもとるということから、近代が成熟するにつれまして、大半の先進国では外在説から内在説にシフトしてまいりました。そういう経緯がございます。すなわち、人権実現の両立可能性や共通基盤、共有財にかかわるものを焦点化する方向に変わってきたということでございます。

 そうした人権内在説を踏まえると、非実在青少年規制の社会的法益が極めて不明瞭であることが気になるところでございます。

 この不明瞭さを解釈する一つのやり方、悪影響論です。条例改正案第七条一号、犯罪を誘発し、健全な成長を阻害するおそれのあるもの、こういう文言があります。質問回答集、子どもの健全な成長が妨げられるのを防ぐためという文言がございます。しかし、メディアに悪影響を帰責する、学問的には強力効果説と申しますが、これには学問的根拠がありません。冒頭に申しましたように、どこの国でも大体そうなんですが、性的なメディアの発達と犯罪率の増加は全く相関していません。日本の場合には完全に逆相関です。

 学問的に意味のあるのは限定効果説です。限定効果説は、今日では二つの側面があります。

 一つは、メディアが直接、素因を形成することがない、メディアは素因のあるものの引き金を引くだけであるという限定性。もちろん効果はあるわけですね。影響はあるわけですが、こういう限定性があるということ。

 そして、もう一つの限定性。対人関係に保護されずにメディアに接触する環境こそが、例えば引き金を引くことにおいてすら問題だという、そういう観点なんですね。簡単にいうと、メディアの与える印象は、性であれ暴力であれ何であれ、一人で見るのか、ほかの人と見るのか、ほかの人が親しき家族、友人であるのか、知らない人であるのかによって、効果が全く変わります。受容者が緊密な対人ネットワークの中に埋め込まれていればいるほど、メディアの効果は中和されるということがわかっています。

 したがって、もともと限定効果説の主唱者であるジョセフ・クラッパーもいっていたことですが、表現規制よりもむしろメディアの受容環境を制御することこそが重要だということになります。したがって、この学説に従えば、主流学説に従えば、表現規制はあくまで次善策、緊急避難策であって、受容環境の制御こそが最善だということになります。しかしながら最善策の努力を放棄して次善策に飛びつくのは、単なる行政的な怠慢であるというふうにいわざるを得ません。

 もちろん、いろんな親がいる。子どもは親を選べない。そうです。しかし、じゃ、親に、子どもが接触しているメディアについてどういうコミュニケーションをとればいいのか、そのようなメッセージを行政が伝えたことがあるでしょうか。あるいは学校教育において、そうしたある種の親業教育、子どもに性的なメディアに対する接し方を、例えばそれを子どもの部屋で発見したというときにどういうコミュニケーションをすればいいのかといったようなメッセージが、行政から発せられたことがあるでしょうか。そうしたことを皆さんが平場で議論をして、それを行政に吸い上げていってもらったことがあるでしょうか。なければ、これはすべて行政的な怠慢であるというふうにいわざるを得ません。

 さらに、社会的法益の不明瞭さに対する第二の理解です。難しいことが書いてありますが、一般には、刑事罰の機能には三つあると考えられている。

 一つは、犯罪抑止ないしは犯罪被害の抑止です。第二は、被害にかかわる感情的回復です。これは当事者並びに社会的成員です。そして三番目が、社会的意思表示ということになります。それになぞらえていえば、例えば悪影響論、これはもうあり得ないんですね、学問的には。であるから、悪影響を抑止するということは横に置こうと。悪影響を垂れ流すやつに対する制裁によってすっきりするということ、これも横に置こうと。

 横に置いても残るものがあると。それは、社会的規範のありかを条例あるいは法を通じて示すということであるという、こういう観念ですね。この場合、規制対象が実在青少年であろうが非実在青少年であろうが、確かに関係がない。こういう行為は我々の社会は許さないということを表明するためですからね。

 しかし、その場合、二つ問題があります。一つは、代替的な社会的意思表示手段がなかったのかどうか、ないのかどうか。あるいは、意思表示はそれでいいと。しかし副作用がないのかどうか。それが問題です。

 代替的意思表示手段は存在します。質問回答集項目5、これまでも性的な刺激を強く受けるような漫画などについては、その子どもの健全な成長が妨げられるのを防ぐため、条例により、子どもに売らない、見せないための取り組みを行ってきました??行ってきているじゃありませんか。つまり意思は表明されてきているのです。従来の取り組みで社会的意思表示の実現が不十分だったという証拠は一切ありません。

 次に、今、積み残した問題、社会的副作用としてどういうものが考えられるかということをお話しいたします。そのためには、ゾーニングという概念についておさらいをします。具体的にいえば、ゾーニングはどういう機能において表現規制と異なるのかということをおさらいして、皆さんに知っていただくということになります。

 僕は、刑法百七十五条については、裁判所、国会その他で、意見証人や参考人として今までも申し述べてきました。表現規制をやめ、ゾーニング規制をせよというメッセージです。

 その学問的根拠を申します。学問的にはわいせつ物なる実体はありません。社会的文脈がわいせつ感情をもたらすだけです。例えば、夫婦の営みは、寝室で行われる限りはわいせつではありません。学会で映写される性器はわいせつ物ではありません。非性的であるべき空間に性的なものが持ち込まれる場合にだけ生じるのが、わいせつ感情です。これを取り締まるのがわいせつ法制です。

 ですから、わいせつにかかわる規制は、社会的文脈の制御だけが合理的なんですね。例えば公的な空間に露出しないということです。

 じゃあ私的な空間はどうなのか。それについては、複雑な社会では人々の物の感じ方が人それぞれであるので、憲法における幸福追求権に、不意打ちを食らわない権利を書き込む、これが先進国の主流の流れです。つまり、見たくないものを突然見せられてしまう、テレビに映るとか、歩いていたら目に触れてしまうとか。この不意打ちを食らわない権利、あるいは見たくないものを見ない権利、見たくないものを子どもに見せないで済む権利を実現するために、ゾーニングはございます。

 さらに、表現規制よりもゾーニング規制の方がまさる点が一つあります。表現規制は、それによって何が規制されたのかを検証することが、表現規制自体によって困難になるからです。かぎのかかった箱の中のかぎ問題というふうに、僕らはよくいいます。ですから、表現規制よりもゾーニング規制の方がふさわしい。

 構成要件不明瞭その他の理由によって、事実上、表現規制として機能するしかない七条二号を含めた今回の条例改正は、その意味で、市民による検証を阻害するものであるというふうにいわざるを得ません。

 さらにもう一つ、非実在青少年が規制対象であることによって、どういう問題が生じるのか。漫画やアニメは年齢判断の恣意性が極めて大きい。設定は成人だが子どもにしか見えない、そういう描写もあります。逆に、設定は子どもだが成人にしか見えないような描写もあります。

 ところで、設定は成人なのに子どもに見えるということ、これが実は日本の漫画やアニメの真髄です。命です。ところが、七条における、特に七条二号における青少年性的視覚描写物の規定を見ますと、全く意味のない質問回答集には、これはこういうものは指しませんとか、こういうものは指しますとか書いてありますが、事実上、子どもに見えれば、青少年に見えれば、これは規制の対象にすると書いてあるじゃありませんか。もし、設定に関係なく子どもに見えることのみをもって取り締まるのであるならば、つまりそういう可能性がこの条例案においては抑止されていない。これは日本的な表現に対する死の宣告です。東京国際アニメフェアを共催する都としても、これは恥ずべき無理解の露呈になります。既になっています。

 逆に、もし設定だけが問題なのであるならば、一部、質問回答集に書いてあるようですけれども、これは成人のコスプレです、どう見えても成人のコスプレなんですと書けばいいだけですか。だとすれば、そんな規制はなおさらナンセンスです。要するに、見ばえに注目するにせよ、設定に注目するにせよ、非実在青少年にかかわる恣意的な境界設定は、どのみちナンセンスを帰結するしかないということです。

 さて、よくいわれます、大義名分的なるものに逆らう人たちがいると、あんたは子どもを守りたくないのかと。子どもを守りたいのはだれもが同じです。ここで重要なのは、事業仕分けと同一の論理です。すなわち、目的はよいとして、手段はそれでよいのか。

 官僚の利権は、よさげな目的に隠れた不合理な手段にこそ宿るんですね。例えば、高齢者保護の目的はいいとして、さて、その手段でよいのか。同じです。青少年保護の目的はよいとして、さてその手段、つまりこの条例でよいのかということです。

 事業仕分けと同じように、この手段のよしあしは、事業のよしあし、行政関与のよしあし、関与の仕方のよしあしの三つに分けることができる。もちろん、子どもを守るという目的はよい。しかし、子どもを守るということをメディア規制によって行うということは疑問です。申し上げたとおり、悪影響論はエヌジーです。意思表示論もエヌジーです。だったら、メディア規制によって、一体どういう保護法益を実現しようとしていらっしゃるんでしょうか。

 事業のよしあし、バッドです。よくありません。さらに行政関与のよしあしについていいますと、子どもを守ることに行政が関与することは一定の条件つきでオーケーです。それは、社会のかかわりを前提にした行政のかかわりであるということです。

 今回の条例は、市民の意見や要望に応じてつくられた改正案ですか。完全にノーです。パブリックコメントも大半が、いや数%だけが無条件で賛成で、大半は反対です。都は隠そうとしてきましたけれども。

 おかしいですよね。社会のかかわりを前提にした行政のかかわりになっていない。さらに行政の関与の仕方の問題は、今まで七条等を通じて既にお話ししていたとおりです。全体として、社会をスルーして、突然、行政が登場している感じがするんです。これは反市民社会的で、到底受け入れられません。

 最後に、市民社会の本義とは何かということを申します。

 市民社会の本義は、雨漏りバケツという比喩でよくわかる。雨漏りが蔓延すればバケツへのニーズが高まります。当然、市場や行政がバケツを提供すればニーズは満たされたことになります。しかし、それでオーケーですか。本当は、屋根をふき直すことこそが本義ではないでしょうか。バケツ提供はあくまで緊急避難的な措置ではないでしょうか。

 これは社会と行政の関係についての比喩ですね。先ほど申しましたように、行政の謙抑性、すなわち社会の自立を補完するのが行政の役割です。屋根をふき直していないんだったら、社会に屋根をふき直させるんです。そして、その過渡的な段階であるとか、それでもどうしてもだめな部分でだけ行政が機能する、これが行政の機能の仕方の本義です。それでいえば、メディアのよしあしについて親子がコミュニケーションする環境を整えることこそが、行政の責務ではないでしょうか。

 やや抽象的なことをいいますと、現実の枠よりも表現の枠の方が広いのは当然です。ですから、我々は表現の枠の中から、これがいい現実なんだというふうに選択をするわけです。ですから、現実よりも表現に逸脱が目立つのは、むしろ社会の当たり前の状態、通常の状態です。そして、その現実の枠を超えた表現の部分について議論をするのが、社会成員の責務ということになります。そのチャンスが十分に与えられていないのであれば、そのチャンスを与えるのが行政の責務ということになります。

 現実の枠を超えた表現の行政的な封殺を許容することは、社会的自立の自殺行為と同じことです。

 私からのプレゼンテーションは以上です。

http://www.gikai.metro.tokyo.jp/record/soumu/d3010198.html

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