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[メモ] 奥平康弘氏の法廷証言(5)

弁護人:最高裁は、刑法175条の主観的要件を「問題の記載の存在の認識、頒布販売の認識があれば足りる」としていますが、制作の意図や目的は、社会的有用性やわいせつ性判断に影響を及ぼすのではないのでしょうか?

証人:チャタレー判決も含めてそうですけど、「物自体を判断するということが175条の判断の仕方だ」という前提があるように思われます。

どういうことかといいますと、物自体に否定すべき価値、消極的な価値というものがあって、だから、それを否定するという考え方になっているんだけれども、メッセージを表す表現物というものは価値それ自身において問題になるよりは、その出版物がどのように利用されるかということは千差万別であり得るわけです。

(略)

弁護人:社会科学者のうちには、人間社会には、教育の場や国会議事堂など、性を語ったり性行為をしない「非性的空間」や「非性的人間関係」があり、そういうところに性的なものが持ち込まれることを防ぐだけで、わいせつ規制は必要十分だと言う人がいますが、そのような考え方について、どのように思いますか?

証人:憲法研究者として、憲法で表現の自由が保障されているということはどういうことかということ、そしてそれは、それぞれの表現というものの特性に応じて、表現が社会に出てきて、それが与える影響というものを考えた場合には、しかも、それを最大限自由にしなくちゃならないということを考えた場合には、表現がどのような場で提示されるかということが非常に重要になってくるばかりではなくて、どのようなレベルでそれが読まれるかということも大事になるわけです。

 ところが、物自体ということで言うと、プライベートで読もうと、公の場で読もうと、あるいは公共機関内で読もうと、いけないものはいけないんだという考え方になるんだけれども、先ほどから言っているように、人間の行動というのは、いろいろなレベルであり得る。

今ここで問題になっているような表現というものは、非常に限られたレベルの中で、非常に私的な部分で、それだから許されるという領域で、我々はある種の寛容をするということが当然と考えられ、憲法はその当然と考えられることを保障しているのが表現の自由だとすれば、場によって規制する仕方というのはおのずから違ってくるし、場によって規制する仕方が違うのであれば、そのような法体系はそれに応じた区別をすべきだというふうに考えねばならないと思います。

http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Tone/9018/shoubun0714-02.html

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