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[メモ] カントの『倫理学講義』

『性的傾向性は、人間が人間としての他人に向かってもつ傾向性ではなく性へと向かう傾向性であるから、この傾向性は人間性を低劣にする原理であり、他人よりも性を優先させて傾向性を満足させることによって人間性を汚す源泉である。ひとが女性に対してもつ傾向性は、ひとりの人間としての女性に対するものではない。むしろ、ある男性にとって女性における人間性はどうでもよく、ただ性だけが彼の傾向性の対象なのである。

それゆえ、この場合、人間性は後ろに押しやられる。ここからは、どんな男性もどんな女性も、人間性にではなくその性に魅力を与えようと、そしてすべての行為と欲望をただ性にだけ向けようと骨折っているということが帰結する。そのとおりである場合、ひとは人間性を性のために犠牲にすることになるだろう。したがって、もしある男性が自分の傾向性を満足させようと思い、他方またある女性も自分の傾向性を満足させようと思っているのであれば、どちらも他方の傾向性を自分に向けて刺激し、そして両者の傾向性が互いに入り交じって、まったく人間性に向かうことなく性に向かい、一方が他方の人間性を汚すことになる。これによれば、人間性は欲望や傾向性を満足させるための道具であることになるが、それによって人間性は汚されて動物性と同等に評価される。それゆえ、性的傾向性は人間性を、それが動物性と同等になるという危機に陥らせる。』

(カント, 2002, 「身体に対する義務について――性的傾向性に関して」。原典を参照した上で、筆者の判断で一部訳を変更している。)

カントにとっては、性的欲望やセックスは本質的に道徳的に問題を含んだものである。すなわち、(1)他者の使用は常に不正であり、(2)すべての性的交渉は他者の使用を含む。したがって、(3)すべての性的交渉は不正である。

http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/bulletin/9/eguchi.pdf

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(メモ) 性的対象化=人権侵害 (APP研究会)

私もこのCMを最近初めて見たのですが、たいへんなショックと怒りを覚えました。女性と子どもが大人であり男である中居くんとの対比で性的な対象物として、表現されているからです。このCMは中居くんが男、オムツを見せる子どもが女であるという設定でこそ成り立っています。逆の想定、つまり子どもが男の子、大人が女、そして男の子が女の大人にをセクシにーオムツを見せる、というシチュエーションはまず考えられないでしょう。子どもは女の子であり、それを「観賞」する中居くんが男であるという構図においてのみ成立しています。

 幼い女の子に対する大人の男の性的な欲望を喚起させてしまうようなCMに感じて、不快感で胸がざわめきました。オムツは性的なアイテムでは決してありません。少なくとも子どものオムツの姿が性的なフェティッシュとしてとらえられるのは、重大な人権侵害、子どもの性的虐待につながり、ギャグですまされません。

 私はこのCMを見て即座に、女性や子ども、ひいては人間全般に対する性的な人権侵害に厳しい地域や国であれば、このようなCMが放映されることがなかっただろう、と感じました。残念なことに、このような表現が堂々とまかり通ってしまうくらい、まだ日本社会の性的虐待に対する認識は低いのかもしれません。

 やはりどう見てもこのCMは、大人の男(中居くん)に、子どもの女性が、客体として対象物にされ、それがあたかもユーモアに感じられ、その人権侵害性や犯罪性が覆い隠されてしまうという性格のものです。セクシャル・ハラスメントの要素も強いと思います。性的な人権侵害や侮辱をユーモアに解消してしまうことで、虐待である本質を見えなくさせてしまうことはよくなされることです。こうした作用に対して惑わされない注意が必要です。(T.Y)

http://old.app-jp.org/voice/2001/01.10.30-2.html


中里見博「ポルノグラフィと性暴力―新たな法規制を求めて」

ソフトからハードまでグラデーションとして存在するポルノグラフィを共通して貫いている原理は、女性を性的に客体物化する(objectify)ことである。(中略)女性の性的客体物化の究極的な形態は、女性の死であるといってよい。つまり、女性の性的客体物化の行き着く果ては、セックス殺人(セックスを目的に女性を殺すこと)である。女性を性的客体物化することを快楽とする男性のセクシュアリティは、 究極的にはセックスと死を結びつける --- 女性の死こそ男性の最大の性的快楽とする --- 権力にほかならない。つまり、女性を性的客体物化する男性のセクシュアリティそのものが、一つの権力なのである。

http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20070613/p1

「性的対象化」(sexual objectification)と「暴力」(violence)

女の物体化なしにセックスは存在し得るのだろうか。また、感覚でとらえられるリアリティであるのみならず、現実のリアリティでもある女の物体化は、それを維持しようとする女自身の協力なしに存在し得るのだろうか。女自身が自分を物に変える??男を人間以上の、堅固で絶対的な国王に仕立てるために、女自身が努力を払い、技を尽くして、自ら人間以下のものになる??ことなしに、女の物体化が起こり得るのだろうか。これらの問いに答えるとすれば、女自身が自分を物に変えることなしには、セックスは存在し得ない。しかし、女に対する男の支配という現行の性制度に付随した、男が支払わねばならぬ代価は、男は平等な相手の前では不能になるということであり、男は平等な相手とは性交できないが、男は性交をしなければならないのだから、女は、自分自身を物に変えなければならないのである。

アンドレア・ドウォーキン(1989)「インターコース 性的行為の政治学」p242

つまりマッキノンによれば、セックスの一部に性的虐待が重なるのでもなく、また、強姦は暴力であってセックスではないという意見でもなく、セックスとは女にとって強姦そのものであり、性的虐待以外の何ものでもない。したがって、性的侵害そのものであるセックスに着目し、そのセックスを変えることが平等を実現するための最重要課題となる。先ほどの誤訳によって、「暴力は認められないがセックス自体は善である」という考え方を前提にしているかぎり、次に述べる「性」の平等を追求するマッキノンの真意は伝わらない。

南茂由利子「セクシュアリティ中心主義への問い―キャサリン・A・マッキノン理論の検討―」
http://www.nwec.jp/jp/data/journal809.pdf

実在児童の人権擁護基金
(郵便振替)
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(ゆうちょ銀行)
店名:〇〇八(ゼロゼロハチ) 普通 5771671
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