スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

(メモ) 悪魔的儀式虐待 - Wikipedia

(あくまてきぎしきぎゃくたい)とは1980年代に起こった虐待の告発ケースである。しかし現在は多くはモラル・パニックに過ぎなかったと考えられている。

アメリカ合衆国では何万人もの子供達が悪魔崇拝者らによって虐待され殺害されていると考える人が少なくなかった。現在もそのような認識を持つアメリカ人は少なくないが、FBIなどの統計上はそのような事実は認められない。FBIは結局国内で悪魔崇拝者らが幅広く虐待を行っているという事実はない[1]と結論を下している。これはアメリカの特に宗教に熱心な地域社会で広まったものであるということで、悪魔崇拝者のレッテルを貼られた者に対する文字通りの現代の魔女狩りに過ぎなかったといわれる。

1983年のマクマーティン幼稚園事件でもこの悪魔崇拝者らの儀式的な性的虐待が話題となったが、全員無罪となった。また、抑圧された記憶を回復記憶療法により思い出したとされる人たちもこのような記憶を持つ人が少なくなかったが、1990年代に虚偽記憶の問題が浮上し、こういった話がセラピストの催眠により作られた記憶であった可能性が高い事が分かると、多くの人が一般にこういったことが行われているという自説を撤回せざるを得なくなった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E5%B4%87%E6%8B%9D%E8%80%85%E3%82%89%E3%81%AE%E5%84%80%E5%BC%8F%E7%9A%84%E8%99%90%E5%BE%85

 アメリカの論争の際にもハーマンはこのように猛反撃をします。

「長年の間、隠蔽されていた犯罪が暴露されるときには、社会にはその事実に反発しようとする動きが現れるものである。これは独裁政治が行なわれていた国で、拷問などの事実が暴露されたときの社会の反応に観察することができる、今日においては、わが国において『記憶の回復』に対する反発に同様の反応を見ることができる」

 ようするにこの人は(彼→この人に修正 失礼しました女性だそうで)、こういいたいわけです。「性的虐待を受けた人間や性被害にあった人間を愚弄するのか、そんな人でなしは、ナチスだ、ファシズムだ、この非国民!」と。ハーマンはのちに多くの事実によって失墜します。

 悲劇にまつわる「当事者被害者意識」は違う問いを立てようとするものの口を封じる役目に意図して出されます。そして意図しない場合でもそういった効果を生み出してしまうのです。

「忘れないで」ということ|女子リベ 安原宏美--編集者のブログ
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10012210484.html

関連記事

・(メモ) ジュディス・ルイス・ハーマン
http://civilliberties.blog63.fc2.com/blog-entry-960.html

スポンサーサイト

[メモ] 「禁欲的なタイプ」とは何か

禁欲的な強迫性人格障害者は、日常生活でサディスティックな攻撃衝動や怒りを抑圧していますが、『相手が道徳や法律に違反している』というような大義名分があれば、その攻撃性や怒りが解放されてサディスティックな性格行動パターンを示すようになります。

中世の聖職者階級や近代の労働者階級、現代の原理主義者(道徳主義者)などに禁欲的なタイプの強迫性人格障害が見られ、『社会規範(法規範)・労働道徳・宗教教義』などを絶対的な判断基準として、そこから逸脱した人物を徹底的に糾弾して処罰することに快楽を感じます。

世界と人間を善・悪に二分して自分が禁欲的な生活をすることで『善の立場』を手に入れ、『悪の立場』にあると認定した人物を厳しく攻撃して罰則を加えるというのが禁欲的なタイプの典型的なパターンです。

その心理の本質は『抑圧した怒り・攻撃性・不満の解放=ルサンチマン(弱者の強者に対する怨恨)の充足』にあり、これだけ禁欲的な我慢をしたのだからそれなりの満足や快感が欲しいという補償の防衛機制も関係しています。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/griffin/obsessive.html

平野悠の好奇心・何でも聞いてやろう「オウムって何?」前半

いやけっきょく、けっきょくですね、宗教っていうものが、なにかこう、ひとつの、絶対的な正義とか善とか、そういうものを定義すると、それ以外ぜんぶ悪になっちゃうという、その正義と、その正義の追求が激しければ激しいほど、悪魔も、もう、ものすごい悪魔が出てきて、じゃこれやっつけなきゃいけない、と。

だから、これが、教団においては、絶対的な正義・善が麻原で、その追求、それがものすごく正義なんだと。で、世の中は、もう、真っ黒で、もう悪魔に支配されているんだと。

これ、世の中はね、もう、このままでは滅びると。滅びる、滅びる。そのうち、滅ぶぞ、滅ぼすぞ!というね、あの、そういう形になっちゃって、自分でこう、滅ぼしてしまうというね、そういうことだったんですよね。

野田成人(元オウム真理教幹部)

http://www.ustream.tv/recorded/8415379

『存在』と『無』という二分法

377 存在権の配分

もしだれかが絶対主義的あるいは全体主義的な真理観を持つと、彼にとっては、その光を見ていない人、つまりその真理を受け入れていない人は、ある意味で闇の中にいるのであり、悪と結合しており、汚れており、存在する権利を持たない。

ここには『存在』と『無』という二分法が働いている。

正当な存在を邪魔するものは押しのけられ、あるいは滅ぼさなければならない。存在する権利がない第二の部類に入れられた者は、心理的に内面の死滅または崩壊というすさまじい恐怖を経験する。

しかし逆に受け入れられた場合には、自己をエリートの仲間と感じる大きな満足感がある。

Mind Control
http://iwatachi.com/mcsogo.html

道徳事業家(moral entrepreneurs)

「規則が生みだされ適用されるあらゆる場面において、われわれはかならず、企画を行う個人ないし集団の存在に気づくであろう。そのような人間の活動を道徳事業(moral enterprise)と名づけることができる。なぜなら、彼らの企画の対象は社会の道徳体系、いいかえれば社会の善悪の掟に新しい一節をもうけることにあるからである。」

「もっともこの種の人間は、一つの目標を失っても、自分の関心を一般化してあらたな緊急事態――なんらかの処置を講じなければならない悪――を探しだすものである。矯正すべき悪事、新しい規則を必要とする状況の専門的発見者となるのである。?私どもが何より恐れているのは、適度にという考え方なのです。?みずからの使命を成就できる改革運動者の数はかぎられているが、彼らが新しい規則を創造することによって、新しいアウトサイダーの群が創造されるわけである。」

「改革運動のもっともめざましい成果は、新しい規則群の創設である。その創設にともなって通常新しい一連の執行機関とその職員が設置される。?急進的な政治運動がやがて組織化されて政党に、また熱烈な福音主義者のセクトが安定した修派に発展してゆくのと同様、道徳改革運動の帰結するところは警察権力なのである。」

ハワード・S. ベッカー(1993)「アウトサイダーズ」(新泉社)より

(メモ) 私は「正義のひと」が嫌いである。 (内田樹)

私は「正義のひと」が嫌いである。

何がはた迷惑といって、「私は正義のひとである」と堅く信じてみじんも疑わない人ほど邪魔臭いものはない。

「正義のひと」はすぐに怒る。「正義のひと」の怒りは私憤ではなく、公憤であるから、歯止めなく「正義のひと」は怒る。

「正義のひと」は他人の批判を受け入れない。「正義のひと」を批判するということはただちに「批判者」が無知であり場合によっては邪悪であることのあかしである。

「正義のひと」はまた「世の中のからくりのすべてを知っているひと」でもある。「正義のひと」に理解できないことはない。

思えば、私のこれまでの人生は(というと大仰だが)「正義のひと」との戦いの歴史であった。

Simple man simple dream
http://www.tatsuru.com/columns/simple/01.html

(メモ) サディズム的な傾向の合理化 (フロム)

サディズム的傾向は、あきらかな理由から、社会的にはずっと害のないマゾヒズム的傾向よりも、いっそう無意識的であり、いっそう合理化されることが多い。しばしばそれは、他人にたいする過度の善意、過度の配慮の結果であるとして、おおいかくされる。

もっとも多くみられる合理化はつぎの通りである。「私がお前を支配するのは、お前にとってなにが最善であるか、私が知っているからだ。お前の利益のために、お前は私にしたがうべきだ」。

あるいは「私はこのようなすばらしい独自の人間であるから、私は他人が私に依存することを期待するだけの権利をもっているはずだ」。搾取的な傾向をかくすためには、もう一つの合理化の仕方がある。「私はお前にたくさんのことをしてやった。今度は私はお前からほしいものをとってもよいはずだ」。

サディズム的衝動のもっと攻撃的な形は次のような二つの形で合理化される。「わたしはひとからきずつけられた。ひとをきずつけようとする私の願いは復讐にほかならぬ」。あるいは「最初になぐりつけたのは、私や私の友人がきずつけられる危険をふせぐためだったのだ」。

エーリッヒ・フロム(1941)「自由からの逃走」

(メモ) 逸脱を増幅するスパイラル in モラル・パニック

モラル・パニックにはコーエンのいう「逸脱を増幅するスパイラル」という要素、すなわちメディア批評家の定義によれば「反社会的行動に分類される出来事やその他望ましくない出来事についての報道が更に次の報道を起こし拡大する螺旋状の進行」という要素がある。

* 関心 - モラル・パニックが起こるには、まず世間に、疑わしい集団や文化は社会に対し悪影響がありそうだ、という認識があることが必要である。
* 敵意 - そうした集団や文化に対する敵意が高まり、「フォーク・デビル」へとされてゆく。「やつら」と「わたしたち」の明確な区分が形成される。
* 合意 - 国民的なものとはならないまでも、「これらの文化や集団は社会に対する現実的な脅威である」という認識が広まり受容される必要がある。このとき、「道徳事業家」たちの声が大きく、その一方で「フォーク・デビル」の声は社会に届かず組織化もされていないことがモラル・パニック発生には重要である。
* 不均衡 - 大衆は、非難されている集団が持つ実際の脅威に比べて不均衡な統計を与えられる。
* 揮発性 - モラル・パニックは揮発性が高く、激しく燃え上がるが終わる時も早く、大衆やメディアの関心は次の事件やニュースへ向かう[1]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF
実在児童の人権擁護基金
(郵便振替)
10020-57716711
ジツザイジドウノジンケンヨウゴキキン

(ゆうちょ銀行)
店名:〇〇八(ゼロゼロハチ) 普通 5771671
ジツザイジドウノジンケンヨウゴキキン

http://jitsuzai-jinken.cocolog-nifty.com/blog/
プロフィール

Author:Civilliberties
FC2ブログへようこそ!

カテゴリ
リンク
検索フォーム
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。