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(メモ)パターナリズム研究会「紹介 J・クライニッヒ著『パターナリズム』(一九八三年)」

(4)小活

「しかし、周知のごとく、残念ながら我々は、自分のアイデンティティの一部である企図やプランを危険にさらすような行為をすることがしばしばあり、そのような場合、パターナリズムは完全性の侵害とはならないであろう.」128

「・・・あるものにとっては些細な介入と思われることも、他の人にとっては大きな介入と思われることがあることに注意すべきである」

 →「パーソナル・インテグリティ」は個別的であるということ.

 7 パターナリズムに課せられる制約

  (1)自由を制限することのもっとも少ない選択肢が優先されるべきである.

「パターナリズムを論ずるに際しての一番の問題は、それが自由に対する強制を含んでいるという点にある.他者への押し付けは、自由を侵害する程度が低ければ低いほど良いのであって、例えば、Aの身体を侵害から守るためにXとYという二つの方法があり、Xという方法の方がAの自由を制限する度合が少ないといった場合には、他の条件が同じである限り、選択肢Xが優先されるべきである.」129

  (2)受手自身の善についての考え方と一致しているパターナリスティックな押し付けには有利な推定が存在する.

「モラリズム的ではないパターナリスティックな押し付けを受け入れることができるのは、それが被介入者のすでに有している目的や企図やライフ・プランをさらに増進させようとするものだからである.」129

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1980/8300kj.htm

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(メモ)「国家からの自由」の想定する「国家」(榎透)

しかし,連邦最高裁はその判決の中で,なぜ国家の中立性が必要とされるのか,なぜ憲法は国家のみを制限すべきであるのかという問題について,国家の側面からは十分な説明をしない。この問題については,ステイト・アクション法理を論ずる学説が次のように説明する。

第1の理由は,政府(government)が莫大な権力を持ち,強大な人権侵害をしうる存在だからである。政府による人権侵害と私的権力による人権侵害との間には質的な差異がある。つまり,政府は,立法権,司法権,執行権といった広範かつ極度に強大な制度上の力を持ち21),私的権力に比べてマイノリティの権利やプライバシーのような「非常に多様な憲法的価値を強大にそして潜在的に破壊する」存在である。しかも,政府の莫大な権力が常に人びとに対して適切な形で行使されることなど,どこにも保障されていない。したがって,憲法は,憲法的価値の破壊を避けるために,政府の強大さに縛りをかける規範として存在する22)。

第2の理由は,政府は「模範としての政府(Government as Exemplar)」という役割を担うからである。この役割の点で,政府と私的権力との間には質的な違いがある。政府の持つ特殊な性格により,政府が提示・許容する価値は類のないほど強化される。それゆえ人びとは自分の立場が政府により承認されると,自己の人種的あるいは性的な見解の正当性について疑問に思わない傾向があると考えられる。政府の偏見が人びとに与える強大な影響は,いかなる種類の私的行為も匹敵しえない。それゆえ,「模範としての政府」という考え方が登場し,この考え方が憲法に規定される人権の対公権力性を正当化する23)。

以上から,「国家からの自由」の想定する「国家」とは,広範かつ強大な権力を持ち,私的権力に比べて「非常に多様な憲法的価値を強大にそして潜在的に破壊する」存在である。またそれは,人びとに対して甚大な影響力を与えうる存在であり,その影響力はいかなる私的権力の比でもない。そのため,国家にひとたび不当な権力行使をされた者は致命的な害を被る。国家はその性格のゆえに,憲法によって規制されるべき存在となったのである。

http://www.senshu-u.ac.jp/School/horitu/publication/hogakuronshu/100/enoki.pdf

Twitter / Schmitt: 今日においては危機はかつてない程に強く立ち現れてきて ...


(メモ) 合意の限界についての合意 (井上達夫)

自己のパラダイムを越えた存在の豊穣性についての合意は、何らかの認識論的・方法論的ルールに従ってその妥当性を実証したり反証したりできるものではない。

それは認識論から存在論への飛翔を要請する。

そう言いたければ、一つの信仰であると言ってもよい。

しかし、それは何らかの特殊な神学的・形而上学的コスモロジーへの信仰ではない。

むしろ、かかるコスモロジーへの整然とした分節構造に封じ込めることのできない<存在の大いなる野生>への畏怖が、この信仰の本質をなす。

この信仰の共有は人間の認識を越えた存在を受容する意識的決断の共有であるという点で、一つの合意であるが、パラダイムの統一を欲する人間の間主観的合意に対する真理の「超越性」を承認する点で、合意の限界についての合意、いわばメタ合意である。

このメタ合意が異質なパラダイムを受容する人々の間に成立したとき、大いなる存在の前での自己のパラダイムの卑小さの自覚が共有され、この相互的な自己批判的謙抑が、自他のパラダイムの相補性の承認を可能にし、間パラダイム的対話による存在理解の地平を絶えざる拡大への意思を育むのである。

井上達夫(2001)「現代の貧困」(岩波書店)

(メモ)全体としての主権者国民と、人権主体としての国民個人

「国民」主権というときは、全体としての国民を指しています。それは、日本国という公共社会のあり方を最終的にきめる立場にあるものとしての国民であり、権力の実体そのものではないにしても、権力に正統性を与える存在です。そのようなものとしての「国民」は、憲法によって縛られる立場にあるのです。

それに対して、憲法十三条がいうのは、「個人として尊重」される立場にある国民です。それは、権力に対抗する??国民の名による権力に対しても対抗する??立場にある、人権主体としての個人であり、憲法そのものに対してすら異議を唱える、思想と良心の自由を主張できる存在です。

主権者の地位にある全体しての国民と、人権主体である国民諸個人とのこの区別は、時として不用意に、時として故意に、混同されます。その混同によって、しばしば、ひとりひとりの個人のかけがえのない生き方が、国民の名のもとに??必らずしも、悪名高い支配者の名においてではなく??圧しつぶされるおそれが出てくるのです。

樋口陽一(2006)「日本国憲法」まっとうに議論するために(みすず書房)

リベラリズムにとっての自由の敵

※ハヴェルの言葉から・・・

「この深みをなすのは,国家権力の主体問題には還元されない.国家権力の限界問題の,人間的自由にとっての根源的重要性への洞察である.「我々が自由であるためには,我々は国家権力の単なる客体にとどまるのではなく,その主体でなければならない」という命題を,リベラリズムは否定しない.しかし,そこから,「我々が国家権力の主体であるならば,我々が国家権力を自己のものとするならば,我々は自由である」という命題を導出することを,リベラリズムは危険な「飛躍理論(中略)」として斥ける.国家権力の主体が誰であれ,「国家権力は一体何をなしうるのか」という問いを,我々の自由にとって根本的な問いとして,リベラリズムは執拗に提起する.この問いに対して「我が意志に適う限り,何事をも」と答える者は,それが独裁者であれ,国家権力を奪取した武装せる人民組織であれ,議会における多数派であれ,議会の多数派に実効的に工作できる圧力団体であれ,その時々の選挙権者集団の過半数であれ,リベラリズムにとっては自由の敵である」

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9901it.htm

卓越主義的リベラリズムとリーガル・モラリズム

このように卓越主義は国家に対して善き選択肢を創造し、悪しき選択を除去することを求める。もっともここにひとつの問題が生じる。自律自体は悪しき選択肢の選択を認めているし、実社会には悪しき選択肢を自立的に選ぶものが多数存在する。はたして国家は強制的な権力を用いて、悪しき選択肢の選択を禁止し、善き選択肢の選択を強制すべきなのであろうか。ここにはリーガル・モラリズムの問題が潜んでいる。ラズはリーガル・モラリズムの問題をどのように考えるのであろうか。

その検討をなすにはラズによる「被害者なき不道徳行為」への言及が参考になる。ラズによると悪しき選択肢の利用可能性の排除は、人々の自律が常に尊重されるべきであるという基本原理を尊重した上でなされなければならない。この基本原理によると、国家が被害者なき不道徳行為を阻止する際に使用する手段は、人々の福利の基礎である自律を侵害するものであってはならない。すなわち国家は、被害者なき不道徳行為を阻止するためには、抑圧的な措置を用いたり、被害者なき不道徳行為を犯罪化したり、強制力を行使してはならないのである。ラズは言う。

「個人の選択がいかに誤っていようと、個人の自律を侵害するような措置を国家が採択することは、他者の利益の保護のために必要な場合以外にはないという少なくともその程度において、誤った選択肢をも消極的に寛容することにも導く。なぜなら諸個人の自律は現代社会においてその人格発展の条件だからである」

このようにラズは個人の自律を最大限に重視し、被害者なき不道徳行為を許容する。すなわちラズは、リーガル・モラリズムを認めないのである。

http://elib.doshisha.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.utf-8/BD00010826/Body/kj00000130544.pdf?CGILANG=english

実在児童の人権擁護基金
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