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[メモ] 家父長制批判の可能性の原理 (3)

さらに、レズビアン・フェミニストは異性愛における性交を、男性の女性に対する支配を社会的に構築したものだとし、その本質をレイプと位置づけた。性交における男性と女性の位置関係は、男性が上位になるように構造化され、この構造は経済や社会といった社会的領域のすみずみまで波及しているとのべる。

(略)

このような思考は、社会を支配する構造を先験的に立てて、あらゆる現象をそこから演繹的に価値評価する思考形式なので、「形而上学的思考」と呼ぶことができる。この思考様式の元では、人がある現象をどのように意味づけているかに関わらず、そのことを価値評価することが可能になってしまうのである。フェミニズムの場合、この構造を家父長制と措呈しているといえる。そして、性別に基づくさまざまな現象や近代知の啓蒙主義的価値観を、家父長制という構造から演繹的に価値評価しているのである。

(略)

ところが、フェミニズムはラディカル・フェミニズム以降、リベラリズムを主要な論敵とみなしてきた。家父長制を再生産させるとして、リベラリズムの解体を主題としたのである。フェミニズムが近代批判を貫徹するためには、このプロセスは必然的にもたらされる帰結であったといえる。

http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/review_2005-03.pdf

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(メモ) ジュディス・ルイス・ハーマン

カシャックによれば、1980年代、フェミニズムについて話さないことが、主流な機関で働くラディカル・フェミニスト心理学者の「奇妙な戦略」だったそうである。ジュディス・ハーマンを中心とするボストンのグループも同様である。ハーマンらは、『心的外傷と回復』(1992)に見られるように、1984年より、メアリー・ハーベイとともにケンブリッジ病院の暴力被害者支援プログラム (VOV)を発展させた。

http://www.flcflc.com/study/article/article02/10_muramoto2.html

○第1章 社会的事件となった「記憶回復療法」

P31「なぜ、このような爆発的な告訴告発ムーブメントが起こったのか」「だが、社会学者オフシー、ジャーナリストのライトらは、アメリカ社会に以前からあった迷信「悪魔崇拝カルト」との連続性を指摘する」

P39「なお、記憶回復療法を実施するセラピストたちは、好んで自分たちを「トラウマティスト」と呼んだという。「心の傷の癒し人」とでも言うつもりだったのだろうか」

P41「ハーマンが唱える療法技法は、治療者という権威の発言が持つ影響力の危険性を見過ごしている」

P50「マインド・ハッカーのクライアントは「女性の不幸は、性的虐待のPTSDによるものだ」ということを受け入れてサバイバーになり、すべての抑圧された人々を救済しようとする十字軍に入るか、受け入れずに「真実から目を逸らしている」「頑固者」などの汚名を受け入れるかの二者択一しかない」

P53「保守的な人々は、「とうとう悪魔崇拝カルトがアメリカ社会にはびこっているという証拠が上がった」と信じた。進歩的であることを自認しているインテリ層も「幼児をもてあそぶ卑怯な犯罪者たちがまた摘発された」と喜んだ」

○第2章 記憶戦争

P62「ことに、批判者たちの中で最も大きな存在となっていったのが記憶研究の大家ロフタス女史であった。このころ、ワシントン大学では、ハーマン支持者たちがロフタス女史の講義にもぐり込んで授業を妨害しないように、私服の警備員を教室に配備しなければならなかった」

P70「ハーマン陣営は猛烈な巻き返しに出た。やはり十字軍の先頭に立ったのはハーマンだった。1994年、フィラデルフィアで行われたアメリカ精神医学学会の年次大会の発表で、「性的虐待のサバイバーたちの甦った記憶に疑問を持つものは、ナチスの虐殺を否定する連中と同じである」と叫び、その発表をサバイバーたちが「女たちは、団結する!」と書かれたプラカードを掲げているスライドを映写して締めくくった」

矢幡洋(2003)「危ない精神分析 マインドハッカーたちの詐術」
http://d.hatena.ne.jp/nakamiyatakashi/20060618


(メモ) 「性・生殖・次世代育成力」 (小泉義之)

マッキノンにおいて注目すべきは、男女の不平等が男女の差異に先行するとされることである。この本源的で一次的な男女の不平等は、それに付随するいくつかの要素を剥ぎとり還元するなら「誰が誰に何をするかが許されるか」を決定するコードのことだと解することができる。つまり男(女)が女(男)の肉体におこなっても(したがっておこなわれても)当然かつ許容可能とみなされる行為様態を定めるコードのことであり、要は男女間の性行為そのものが「不平等」の正体なのである。このことはマッキノンのレイプ論によっても確認できる。マッキノンによれば、プロチョイス派もプロライフ派もレイプによる妊娠については中絶を容認するが、その正当化事由となっているのは女の性行為にたいする選択の自由(の暴力的な剥奪)である。裏からいえば、ここには男の暴力・強制性を排することができるなら、男女の性行為は平等なものとなるとの想定がある。だがマッキノンによれば、それは誤りである。

(略)

ラディカルフェミニズムの議論のひとつに、女が男に同意する過程にたいする外部の作用因の指摘をもってして、その同意過程と対象に強制性が宿るとする論法がある。これじたいは凡庸な指摘だが、そのうえでゲイ・ルービンは、性規制の法も道徳も異性愛以外の性行為にかんしてはそれが合意にもとづくか否かにかかわらず、それが対等平等な人格間の行為であっても当該行為そのものに反価値性が宿っていると判定している。これにたいしてリッチ・マッキノン・アンスコムも、異性愛の生殖擬態行為そのものに反価値性が宿っていると判定しているのである。そしてこの観点からすれば、異性愛は「参与者の欲望がどうであろうと、犯罪性が行為そのものに内在している」「自然に反する嫌悪すべき忌まわしい犯罪」ということになる(マッキノンは性倒錯を規制する法の論理を、異性愛に転用したとみることもできよう)。

http://www.arsvi.com/b2000/0910ky.htm


[メモ] 家父長制批判の可能性の原理(2)

このようなレズビアン・フェミニズムによる分離主義は、ラディカル・フェミニズムの論理から必然的に導かれるといえる。なぜならラディカル・フェミニズムは、男女関係が先験的に差別関係の中に置かれていると主張し、二つのことをその論拠としてあげるからだ。第一にすべての男女関係は性愛関係の変奏形態であり、女性は、性的存在であることを基底とした存在であるということ、第二に性愛関係の本質は差別関係である、というのがその根拠である。つまり、男女関係はつねに、すでに差別的であるというわけだ。そこから異性愛主義というものが問題化されることになる。なぜなら異性愛には性別の区分と男女間の力学関係が含まれるからである。異性愛とは男女という性別に基づく関係性であり、この関係は男性から女性への権力関係として構造化されている。こうした論理によって、レズビアン・セパレイティストによるレズビアン共同体こそが、家父長制への対抗の拠点という思想が生まれてきたといえる。ところが、この論理を引き伸ばすと、女性同士の関係、男性同士の関係も男性上位の形で構造化されたジェンダー秩序の中に配置され、それを支えているという結論になる。男女間の権力構造が先験的なものだとしたら、男性と関係を持たないで、女性同士の関係だけを抜き出したとしても、この権力構造は反映する。つまり、異性愛だけではなく、性別という区分によって行使されている現在のセクシュアリティの秩序自体が、性差別と抑圧の構造を再生産させるということになる。

http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/review_2005-03.pdf

[メモ] 家父長制批判の可能性の原理 (1)

わたしの考えでは、ラディカル・フェミニズムからポストモダン・フェミニズムへの論理展開は、社会を先験的に家父長制体制と規定しているところからもたらされると思われる。こうした論の立て方だと、性別に基づくあらゆる行為は、家父長制的体制を補強するものだということになってしまう。また、近代西洋が男性支配のシステムだとすると、合理性や自立性をはじめとした近代の啓蒙的価値の一切が、家父長制的イデオロギーとして否認されることになってしまうのである。

なぜならば、人間のどのような行為でも、外在的な構造をア・プリオリに立てて、その構造連関から機能主義的に意味づけることが可能になるからだ。このような思考は、社会を支配する構造を先験的に立てて、あらゆる現象をそこから演繹的に価値評価する思考形式なので、「形而上学的思考」と呼ぶことができる。この思考様式の元では、人がある現象をどのように意味づけているかに関わらず、そのことを価値評価することが可能になってしまうのである。フェミニズムの場合、この構造を家父長制と措呈しているといえる。そして、性別に基づくさまざまな現象や近代知の啓蒙主義的価値観を、家父長制という構造から演繹的に価値評価しているのである。こうした思考形式の例としては、フェミニズムにおける家父長制概念だけではなく、アルチュセールの「国家のイデオロギー装置」やフーコーの「権力論」などをあげることができる。

http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/review_2005-03.pdf

(メモ) マッキノン=ドウォーキンのモデル条例案への批判

このようなマッキノン=ドウォーキンのモデル条例案には次のようなさまざまな批判が加えられ
ている。3)

(1)たしかに条例は刑事的ではなく民事的であり、国家が直接検閲を行なうわけではない。しか
し、実質的なポルノグラフィの出版抑止の効果は刑事的な法と変わりがない。条例による「萎
縮効果の影響は極めて重大なものになりうる。

(2)条例のポルノグラフィの定義はあまりにも漠然としている。特に、「従属」という言葉の定義
には問題が多い。たとえば、ほとんどすべての性的表現が女性を従属的に描写しているとみな
すひともいれば、避妊をともなった性行為は女性を従属させるものだとみなすひともいるだろ
う。

(3)条例の「ポルノグラフィ」の定義は、女性に対する暴力を含んでいない性表現までポルノグラ
フィとしてしまう。

(4)また、条例の定義は、性的にあからさまかつ性差別的なものを対象としているが、暴力的で性
差別的なもの、暴力的で性的にあからさまなもの、単に暴力的なもの、単に性差別的なものな
どはポルノグラフィとはされない。女性に対する暴力と性差別が問題であるならば、そのよう
なものも訴訟の対象とすることができてしかるべきである。

(5)条例は性行為・性表現に関する特定の規範をおしつけてしまっている。

(6)条例は、セックスは「女性の品位を下げる」という因襲的な見解に依存している。

(7)ポルノグラフィが女性に対する暴力を引き起こすことを証明していない。また歴史的に、ポル
ノグラフィが現在ほど入手しやすくはなかった過去の時代にも女性に対する暴力は多数存在し
ていた。

(8)実際にマゾヒスティックな欲望や快楽を味わっている女性も存在するかもしれない。もしそう
であるならば、「サドマゾヒズムは嘘だ」という主張は、フェミニストが戦うべき対象である

(9)ポルノグラフィは、因襲的な性的規範を破壊し、性的な偽善や性的な必要性の無視を揶揄する
ことによって、女性の利益となることもあるかもしれない。

(10)条例は自由な言論を制限することによって、極右など保守的勢力を利することになる。

(11)女性に対するエンパワーメントのためには、アファーマティブ・アクションや男女同一賃金
原則などの他の立法措置の方がむしろ役に立つだろう。

http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/bulletin/6/femi.pdf

ポルノグラフィを見る人は、それを三次元の世界で実行したくなる。

ポルノグラフィを見る人はやがては、なんらかの形で、それを三次元の世界で実行したくなるのだ。やがては、なんらかの形で彼らは「やる」のだ。そうさせられるのだ。それが可能だと感じたとき、そのために罰せられないと感じたとき、実際にやるのだ。自分たちが影響力をおよぼせる分野にしたがって、自分たちの持っている力をすべて使って、この世の中をポルノグラフィ的場所に保ち、いつもペニスが勃起しているようにする。

キャサリン・マッキノン『ポルノグラフィ――「平等権」と「表現の自由」の間で』

マッキノンの強姦認識

マッキノンの強姦認識は、スーザン・ブラウンミラーの「強姦=暴力」説に対する反論である。「強姦=暴力」説では、暴力的なセックスはセックスと認められない。これは、暴力的でない「善い」セックスの存在が前提となる。その前提自体の問い直しをマッキノンは主張する。「性的に侵害されたことのない女というのはこれまでに誰もいない。なぜならば性的侵害こそがセックスであるからだ」[ibid.1991134]。つまりマッキノンによれば、セックスの一部に性的虐待が重なるのでもなく、また、強姦は暴力であってセックスではないという意見でもなく、セックスとは女にとって強姦そのものであり、性的虐待以外の何ものでもない。したがって、性的侵害そのものであるセックスに着目し、そのセックスを変えることが平等を実現するための最重要課題となる。先ほどの誤訳によって、「暴力は認められないがセックス自体は善である」というえ方を前提にしているかぎり、次に述べる「性」の平等を追求するマッキノンの真意は伝わらない。

セクシュアリティ中心主義への問い―キャサリン・A・マッキノン理論の検討― 南茂由利子
http://www.nwec.jp/jp/data/journal809.pdf

強姦被害者の話と女性がセックスについて語る話とを比べてみると良いだろう。両者は、非常によく似ている。性行為(正常な行為)と強姦(異常な行為)の大きな違いは、性行為はただ頻繁に行われているというだけで、それを誰も変に思わないだけのことだ。?キャサリン・マッキノン。P180

検閲賛成派フェミニストは、少なくともセックスや性表現の分野では、女性が自発的に自分の意志で選択をすることはありえず、また、女性はつねに強要されており、それを自覚していない女性もただそれに気づいていないだけなのだと断言している。

しかし、女性は子どもや精神障害者のように扱われるべき存在ではなく、女性からポルノグラフィ制作にかかわる権利を奪うべきではない。これは、マッキノン・ドゥオーキンのモデル法の影響である。P282

ナディーン・ストロッセン(2007)「ポルノグラフィ防衛論」


実在児童の人権擁護基金
(郵便振替)
10020-57716711
ジツザイジドウノジンケンヨウゴキキン

(ゆうちょ銀行)
店名:〇〇八(ゼロゼロハチ) 普通 5771671
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